今回は哲学的なテーマです。
『腐敗したご遺体を解剖することに意味はあるのか?』です。
皆さんはどう考えますか。
我々の扱うご遺体は病理のそれとは違います。
場合によっては腐敗したご遺体と向き合うことがあります。
それでも依頼を受けた以上は解剖を行います。
しかし、腐敗の程度にはよりますが、高度に腐敗した場合は解剖しても死因が特定できないことも多いのが実際です。
それならば、わざわざご遺体に侵襲を加え、法医学者自身もしんどい思いをしながら解剖をする意味はあるのか?という考えが生まれてしまうのも理解できます。
私自身は...「それでも解剖すべき」という信念の下、日々解剖を行っています。
先ほど書いたように実際に死因が分からないことは確かに多いです。
しかし、解剖をすることで「分かることが全くない」わけではありません。
例えば、見た目的に腐敗が高度に進行している場合でも、内部にある臓器は割と腐敗が進行しておらず保たれていることも多いです。
出血なら腐敗が進行していても分かることもあります。
白骨遺体の場合でも、骨折やその既往が分かったりします。(死後画像も有用)
そして、何よりも『"解剖して死因が分からなかった"ことが分かった』ということです。
言葉遊びのように思えるかも知れませんが、これがかなり重要だと私は思っています。
今現代の日本においては、死因究明のゴールドスタンダードは以前として"解剖"だと言われています。
もちろん前述のように死後画像もとても有用なのですが、それでもまだまだ最終的な確定診断的な観点では"解剖"に優位性があります。(当然両者を併用するのが1番良いのは言うまでもありません)
『その解剖をもってしても死因が特定できなかった』というのは、法医学上での意義は大きいと思っています。
例えば、高度腐敗したご遺体が運ばれてきて、そこで解剖をしなかったとします。
おそらく解剖をしたところで十中八九結果は変わらない(死因は特定できない)と思ったのでしょう。
しかし、それすらも解剖をしていないので推測の域を出ません。
法医学を含め、医学は解明されていないことばかりです。
「解剖をやってもわからないだろう」は「解剖をやっていたらわかっていたかも知れない」という裏返しとも言えるかも知れません。
両者のどちらが正しいかは分かりません。だって解剖をしていないんですから。
そんな万が一、億が一の可能性を虱潰しする意味があるのか?と思われる方もいらっしゃると思います。
それでも意味があります。
その答えは"法医学"だからです。
法医学は「法律に隣接した医学」であり、『白黒はっきりさせること』が求められます。
なので、法医学においてはできる限り憶測での話は避けるべきと私は考えています。
そう考えた時、やはり腐敗した遺体でも解剖をして『詳細不明』という答えを出すことには一定の意味があると信じています。
あとは、誰しも死因究明を受けられるのはある種の人権だと私自身は思っているというのもあります。
これは考えようによってはプライバシー権とも相反する可能性はありますし、あくまで私の超個人的な考え方に過ぎませんけどね。
これに関してはきっと明確な答えはないのだと思います。
少なくとも現代の日本においては、高度腐敗に対して解剖を行ってはいけないという規定はありません。
ですので、言ってしまえば、その範囲で法医学者が死因究明しているだけの話ですかね。
結局尻切れとんぼみたい結末になってしまいましたが、皆さん自身はどう感じますか?
腐敗遺体に解剖を行う意味があるのか...ないのか...。
是非いろんな人の意見を聞いてみたいものです。