「警察官が興奮状態になって暴れる容疑者が取り押さえていたところ、容疑者が急死した」
そんな海外のニュースを目にしたことがあるかもしれません。
法医学の世界では、これを「興奮性せん妄」と呼ぶことがあります。
実を言うと、世界中でもまだまだ議論に尽きない疾患概念です。(むしろ日本では議論さえされない...)
なので、今回書くこともあくまで「まだまだ議論の余地がある内容」だと理解した上で読んでほしいです。
【興奮性せん妄】= Excited Delirium (ED)
興奮性せん妄は、"興奮性せん妄症候群"(=Excited Delirium Syndrome [ExDS] )とも呼ばれます。
厳密な定義はありませんが、ざっくりと「急性のせん妄や激しい興奮状態、暴力的な行動を伴い、突然の心肺停止に至る症候群」という病態を指します。
(※時として、興奮状態から数時間後に亡くなることもある)
かつては、この興奮性せん妄そのものが"病名(≒ 死因)"として呼ばれてきたことがありました。
しかし、近年は、「警察官による過剰な制圧という"本当の死因"を覆い隠してしまう便利なラベルになってしまっていないか?」という批判を受けて、
『あくまでもそういった"症状・状態"を指す語句に過ぎず、"興奮性せん妄"という病名があるわけではない』という見解が通説となってきています。
このような「異常な興奮を伴って急死する」というケースは、よく海外の警察官に関連したニュースで知られます。
典型的な架空事例を挙げますと、、、![]()
(※AIによる生成)
30代男性。統合失調症の既往歴があり、最近はコカインなどの精神刺激薬を使用していた疑いがある 。夜間、近隣住民から『支離滅裂なことを叫びながら裸で道路を走り回っている』との通報があり、警察官が現場に到着した。
男性は極度の興奮状態にあり、警察官に対し『お前たちは俺を殺しに来たんだ』といった被害妄想的な言動と共に、激しい興奮状態であった。警察官4名がかりで制圧を試みるが、男性は『予期せぬ筋力』 で激しく抵抗を続ける。この間、男性は多量に汗をかいており、触れた警察官は『(男性の身体は)とても熱い』と感じた。
制圧が困難であったため、警察官はテーザー銃を複数回使用した。数分間にわたる激しい攻防の末、男性はうつ伏せの状態(=hog-tie)で拘束された。しかし、拘束が完了した直後、男性は突然ぐったりして、抵抗しなくなった。警察官が確認すると、男性は無呼吸であり、駆けつけた救急隊によって心停止が確認された。
皆さんは、↑の事例のようにして亡くなった方の死因を何だと考えますか?
この一つの回答が【興奮性せん妄】です。
この重度の興奮状態の背景には、下記のような要因が認められることが多いです。
- コカインやメタンフェタミンといった覚醒剤
- 統合失調症や双極性障害などの精神疾患
- アルコール
【(覚醒剤や精神疾患によって)強烈な興奮状態になる → 交感神経優位となる → アドレナリンやノルアドレナリンなどのカテコラミンの血中濃度が大きく上昇する → 心臓に作用する → 致死性の不整脈が起きる → 突然死する】
「(上記の原因などを背景とした)強烈な興奮状態によるカテコラミン誘発性の致死性不整脈によって突然死する」というのがメインの機序だと言われています。
この他にも、
- カテコラミン上昇によってカリウムの細胞内移行が進んだことによる低カリウム血症
- 激しい筋運動により乳酸が蓄積されることによる代謝性アシドーシス
などの機序も起こり得ると言われます。
興奮性せん妄の典型像としては、上記の架空事例の通りで、
- 高体温/異常発汗 (※時に40℃を超える)
- 瞳孔散大
- 異常な筋力
- 痛覚鈍麻
などの症状が報告されています。
一方で、不整脈死以外にも、ホグタイなどによる体位性窒息(≒ 制縛死:関連記事)や超高体温、チョーキング、催涙スプレー、テーザー銃などが死を引き起していることもあり、興奮性せん妄には複合的な要素もあります。
特に"体位性窒息/制縛死"だった場合には、警察官の対応が死に直接影響を与えた可能性も考慮しなければならないため、十分に注意して判断する必要があります。
また世界の法医学者の中には「興奮性せん妄は拘束状態下でこそ起こり得る」と主張する先生もいます。
(他にも「体位性窒息/制縛死なんて存在しない」と主張する法医学者すらいます...)
そうなってくると、興奮性せん妄と体位性窒息/制縛死の両者を区別することは可能なのか? そもそも区別することに意味があるのか?といった議論になりかねませんよね...。
冒頭に記載したように、米国をはじめとする諸外国では「興奮性せん妄」という死因は推奨されません。
なので、その立場から言うと、前述の私の"回答"は不適切だったのです。
本架空事例は、これ以上の情報がないため断定はできません。
例えば、死後の血液検査で血中に高度のコカインが検出されれば...【急性コカイン中毒による致死性不整脈】と判断できるかも知れませんし、
解剖では窒息死の所見が認められ、身体にかなりの体重がのしかかって被害者が呼吸運動ができなかった可能性が高いと判断できれば...【体位性窒息による窒息死】と言えるかも知れません。
何度も言うように、正しくは、このような事例をあっさりと「死因は"興奮性せん妄"である」と結論付けてしまってはいけないということです。
「興奮性せん妄か?体位性窒息/制縛死か?」
この言葉をめぐる海外での論争は、単なる医学用語に関する定義の問題ではありません。
実は、これは人の死の「責任の所在」を巡る議論なのです 。
【興奮性せん妄】という"病名"は、死の責任を「被害者の特異な体質(病気)」という結論に帰着させます。
一方で、【体位性窒息/制縛死】という"死因"は、死の責任が「制圧者の不適切な行為」、つまり外的要因にある可能性を指摘します。
日本ではまだまだ「興奮性せん妄」という言葉に馴染みはないかもしれません。
しかし、精神疾患や薬物使用によって興奮し、制圧を必要とするケース(そして、その制圧下で急変する人)は日本にも当然に存在することでしょう。
この議論から私たちが学ぶべきなのは、単なる"病名"で思考停止しないことなのです。
目の前の"せん妄"という状態に対する対応と、"制圧"という行為の妥当性を、常に分けて検証する。
この「区別」して考えることこそが、未だに議論の生まれない今の日本においても、社会に求められる視点なのではないか?と私は思います。