我々法医学がメインに扱っている【死】
その【死】とはどういう状態のことをいうのでしょうか?
皆さんはこれに答えられますか?
今回は『死とは何か?』が理解できることを目的としています。
正直なところ、死の定義には様々なものが言われています。
各教科書にはこう書かれています。
『死とは、その個体としての生命活動が永久的に停止した状態である』(生物学的死)
『肺・心臓・脳のうち、いずれか一つの永久的(不可逆的)機能停止が個体の死である』(臨床的死)
『死の定義としては、呼吸運動と心拍動の不可逆的・永久的な停止、が適切である』(二徴候説)
『呼吸運動と心拍動の停止に加えて、瞳孔の対抗反射の停止も加えたものが死である』(三徴候説)
『脳(もしくは脳幹)の不可逆的機能停止が個体の死である』(脳死)
これのどれが正解という話ではなく、時と場合によって変わります。
2つ目の定義は、以前主流だった考え方のようです。
3つ目や4つ目は、主に臨床現場のご臨終における考え方ですかね。
最後のものは、人工呼吸器などが進歩してきた近年に入って、"脳死"という概念が生まれてからの定義です。
このように時代や状況によって、考え方が変わり得るのは特筆すべき点かも知れませんね。
そんなことを言っていては話が進められないので、今回は最も汎用性のある1番最初の定義を軸として話を進めます。
少しわかりづらい言葉だと思うので、解説していきます。
まず言葉をバラバラにしてみると、以下の3点のポイントが挙げられます。
①個体
②生命活動
③永久的停止
細かくみていきます。
①個体として
これは、『一部の細胞だけ』ということではありません。
個体=『体の様々な細胞の集合体』という意味になります。
例えば、脳梗塞や心筋梗塞では、脳細胞や心筋細胞の『一部』が酸素不足によって死んでしまいます。
ただ軽症例では、脳細胞や心筋細胞の全てが死んでしまったわけではなく、脳機能や心機能はある程度保たれることになります。
こうなると、"個体としての死"には該当せず、つまりいわゆる体全体としての"死"ではないということですね。
あくまで、"死"という状態を判断するには、生きていくのに必要な身体の全体的な細胞が死んでいなければいけません。
②生命活動
こちらは読んで字のごとく『生きるために必要な活動』ということです。
生きるために必要ではない活動が(永久に)停止しても、それは"死"ではありません。
これは単純で感覚的にわかりやすいですね。
③永久的停止
この言葉の逆は『一時的停止』になります。
例えば、最近話題の『ECMO(エクモ)』は"人工肺"とも言い換えられると思いますが、これは現時点では"一時的に"機能不全にある肺が、今後改善してくることを期待して導入されます。
この際の肺は"死んで"はいません。
今後回復していけば、一時的・可逆的な機能不全(停止)になりますから。
"死"と言うには、永久的に停止していなければなりません。
以上、3点を満たすことが必須ということです。
改めてきちんと考えてみると、思ったより単純な話ではなさそうです。
では「実際の現場ではそれらをどう判断しているのか?」です。
日本においては医師と歯科医師だけが死亡診断書を発行できます。
死亡診断書によって、その人は亡くなったことが社会的に証明されます。
言わば"死亡の証明書"といったところでしょうか。
死亡すると社会的に様々な権利が消えますので、死亡というのはそういう意味でもかなり大事(おおごと)です。
決して間違いがあってはなりません。
目の前のご遺体に対して、本当に死亡しているのか判断するにはどうすれば良いのか。
つまりは、①個体として②生命活動が③永久的に停止しているのか?を判断するにはどうすれば良いか...。
今までの話を考えると、実際は難しいのではないか?とすら感じてしまいます。
ただ、少なくとも現在の臨床においてはほとんどで"三徴候説"が採用されていると思います。
三徴候:呼吸停止・心停止・脳(機能)停止
生きるのに必要な臓器である肺・心・脳の3つともが機能停止している→『個体としての死』と判断するという論理です。
具体的にベッドサイドなどでは、
呼吸停止→視診や聴診など
心停止→聴診や心電図モニタなど
脳停止→対光反射(生きていれば、目に光を当てると瞳孔が縮まる)や脳波検査など
で判断しています。
こうみると「意外とあっさりしている」と感じる人もいるかもしれません。
ただ病態によっては、一時的に呼吸や心臓、脳機能が停止することもあります。
それが永久的・不可逆的か?を判断するところに、医師や歯科医師としての医学的な専門性があると言えるのだと私は思います。
ところが、近年はこの三徴候説が当てはまらないケースが出てきました。
それが"脳死"です。
"脳死"とは、前述の脳(機能)の死→『脳の不可逆的機能停止』です。
ある意味、脳における"一徴候説"とも考えられます。
脳は3つの臓器の中でも生命活動の根幹を成す臓器とも言えます。
また他の2つの臓器は、仮に機能停止しても、人工呼吸器・人工心臓、人工心肺装置などで生命維持はある程度可能です。(倫理的な話は別にして)
ただし脳の機能というのは代替できません。
なので、そのような脳の機能が停止している→(個体としての)"死"として判断してもよいのではないか?という議論が出てきたというわけですね。
脳死自体の詳しい話(脳死と植物状態との違い等)は、また別の機会にしたいと思いますが、結論だけ言いますと、上記のような状況に対して現行の医療においては、
『脳死移植を前提として状況において"死"と認める。』
という限定的な判断に留まっています。
つまり「脳死移植を前提としていない状況においては、脳死=(個体としての)"死"とは認めない。」という立場です。(参考記事:「脳死」「植物状態」)
ということで、現時点の臨床現場では『"死" ≒ 三徴候説に基づく死』が妥当な判断かと個人的には思います。
臨床では『呼吸が止まっても心臓は最後まで残る』といったことはしばしば経験します。(逆もごくたまにあると聞いたことがありますが...)
これはおそらく「(呼吸を司る)脳に比べると、心臓は比較的虚血に強い」という性質も一因だと思います。
確かに、呼吸が止まれば酸素供給も絶たれ、最終的には必ず心臓も関連して止まります。
冒頭の『肺・心臓・脳のうち、いずれか一つの~』という言葉の流れを裏返して汲んでみても、
『これら3臓器は互いに協調して生きている→どれか一つでも機能停止すると(いずれは)他も機能停止となる』とも言えます。
この『肺・心・脳のどれか一つでも機能停止すると他も機能停止する』という観点から派生して、【自発呼吸が不可逆的に停止した最初の時を死亡時刻とする】という考え方もあるようです。
そうなってくると書いてきた三徴候説から死亡確認・死亡時刻を判断するという方法と矛盾が出てくるので、難しいところですが...。
ということで、今回の話をまとめますと、、、
『死は、個体としての生命活動が永久的に停止した状態である。』
『実際の臨床現場では、多くが三徴候説に基づいて死亡が確認される。』
『ただし臓器移植が前提とされているケースでは、脳死も"死"として限定的に認められる。』
といったところです。
法医学をやっていると、ある程度法律的な考え方が求められることがあります。
法律が絡んでくると、かなり細かいところまで定義や概念を詰める必要出てきます。
だからこそ、"死"という一つの事象を言うにしても、やはりここまで細かいことを考える必要があるんですよね。
これもまた法医学の特徴かも知れません。