死後トロポニン・H-FABPの有効性

前回"警察医"について書きました。

その検案業務の中で、かつて行われていた『血中トロポニン・H-FABP検査』を今回はメインに書いていきたいと思います。


結論から先に書きますと、

死後トロポニン測定・H-FABP測定はともに法医学者の間では『有用でない』と判断されています。

詳しくみていきます。



前回書いたように『警察医が検案を行った上で、その場で死体検案書を書いて終わる』こともあります。

しかし、実際にご遺体の外観を見ただけで死因が分かって「問題なし」とできるケース決して多くありません。

検案で死因を判断するために、警察医の先生はご家族から生前の状況を聞いたり、既往歴・内服歴を聞いたり、熱心な先生の中にはかかりつけ医や搬送先病院まで情報を問い合わせる先生もいらっしゃるようです。(しかし個人情報保護の観点からなかなか教えてくれないとか...)

またご遺体に対して検査を行うこともあって、そのひとつが前々回に挙げた"後頭窩穿刺"ですね。※どうやら後頭"下"穿刺とも呼ぶらしいです


また"血中トロポニンやH-FABPの測定"もそういった検案時の検査のひとつに数えられます。

ただその意義については『否定的である』というのが法医学者の間のコンセンサスだと思います。


"トロポニン"の一部は心筋逸脱酵素として、つまり心臓が酸素不足などのダメージを受けた際に心臓から漏れ出てくるタンパク質の一種として、臨床医学において心筋梗塞の診断補助等に使用されています。

"H-FABP(ヒト心臓由来脂肪酸結合蛋白)"についても似たようなもので、こちらはトロポニンよりも早期に上昇し早期に正常化すると言われています。


血液を数滴垂らして15分ほど待つだけで陰性・陽性の結果が出るキットもすでに存在しています。

なので、それを法医学にも応用し「死後のご遺体でも、心筋梗塞などによる死亡などを判断に使えるのではないか?」という考えに行き着きます。


実際、心筋梗塞などを含む"虚血性心疾患"という疾患群は、解剖したご遺体の病死で最も多くを占めているのですが、それにも関わらずなかなか検案のみでの診断が難しい疾患なんです...。

だからこそ「これが診断できるツールがあれば良いな」というのは、法医学に携わる者なら誰しもが願う悲願なのです。


ただ現実はそう甘くありません。

心筋梗塞で亡くなっていない場合でも、トロポニンやH-FABPは死因に関係なく死亡時に心臓から漏れ出てきてしまい、血中の濃度が高値となるため『死後診断には適用できない』という論文がたくさん出され、法医学界でもそれを指示する結論に至りました。

特に検案症例を含め法医学で扱うご遺体というのは亡くなった直後でもありませんので、原則「使用できない」と考えるべきだと私自身も思っています。



極々一部の地域では、現在でもまだ使用することがあるという話をチラッと聞いたこともありますが、この結果を持って"虚血性心疾患"と判断するのはかなりの危険を孕んでいます。

死因を間違うのは百歩譲って仕方ないとしても(あってはなりませんが...)、虚血性心疾患(や心筋梗塞)という死因は病死ですので、万が一その裏に事件が関わっていた場合は、その誤診によって犯罪が見逃されてしまうからです。

この警察医制度が"警察の嘱託"、つまり犯罪捜査の観点から行われていると考えると本末転倒な結果になってしまうわけです。



私自身は解剖を主に行っていますので検案だけで死因を判断する機会はあまり多くないですが、実際のところ私は検案のみで病死を判断できる自信はありません。

少しでも多くご遺体の情報を集めて判断したい、可能なら解剖をした上で判断したいと思ってしまいます。


警察側の立場からすると事件性・犯罪性が否定できれば(≒病死と判断されれば)死因が何であろうとあまり気にならないのかも知れませんが、我々法医学者や警察医の先生方はやはり「この方は何が原因で亡くなったのか?」というのを考えてしまうのが医師としての性なのではないでしょうか。

警察医の研修会に参加しても、毎回警察医の先生方はとても熱心に勉強されている印象を受けます。

せめてそんな少ない武器で見えない敵と戦う警察医の先生方からの解剖要請に応えられるくらいのマンパワーが法医学にも欲しいものだとは思いますがそれも...。

日本医師会・都道府県医師会の中に警察協力医の組織が出来てきた今が、改めて警察医制度も含めた死因究明制度を根本的に考え直すタイミングなのかも知れません。