溺死・溺水

今回のテーマは"溺死・溺水"についてです。

日本は海に囲まれているので、こういった水害が頻繁に起こります。

またお風呂好きな日本人独特の死として、"水浴死・風呂溺"というものもあります。(参考記事:「風呂溺・ヒートショック」)

このように日本の法医学者にとっても"溺死・溺水"は切っても切れない関係なのです。

そんな"溺死・溺水"を今回は取り上げたいと思います。



『溺水』:液体(主に水)が侵入することで気道が閉塞され窒息する病態。

『溺死』:"溺水"による死亡のこと。

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前述の通り、溺死は日本で多いので、重要な所見も数多くあります。

溺死所見も多数挙げていきます。

詳しくみていきましょう。



"溺死"は一般的には「溺れ死ぬ」ということです。

法医学的に言うと、前述のように「気管内に液体が侵入ことで気道が閉塞され死亡すること」になります。

広くは窒息に分類され、直接的な死に繋がるメインの病態は"低酸素血症"です。(その他、冷水の場合は迷走神経反射による心臓死もあると言われる)


教科書的には『体重の2-10%の水を吸引すると溺死する』と言われています。

しかし、大量の水を吸い込んだこと自体で死に至るわけではなく、窒息することが直接の原因なので、決して体が水中に漬かっていなければならないわけではありません。

足の着く浅瀬や極端な話洗面器に張った水であっても溺死は起こり得ます。

ドラマであるような「水面に顔を押しつけて殺害しようとするシーン」を思い浮かべても分かると思います。



水中ではキャスパーの法則により、腐敗の速度は地上と比べ半減します。(参考記事:「キャスパーの法則」)

ところが、引き上げ後に低い水温によって抑えられていた腐敗および自家融解が一気に進行します。

そのため、「検視時に見たときよりかなり進んでいる」と解剖時に警察官が言ったりすることもありますね。


溺死時の姿勢は様々ですが、典型的に『頭や手足が垂れ下がった姿勢』とされます。

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このため、浅瀬での溺死では、頭部や膝、手足の先などに生活反応に乏しい傷(独語で"Treibspur")が出来ていることも実務ではしばしば経験されます。


水中での姿勢については、肺や胃の中の空気量によって違うとされます。

含気が多い:直立に近い姿勢
含気が少ない:屈むような姿勢
含気が殆ど無い:うつ伏せに近い姿勢

と含気量に伴って、徐々に直立から水平に変化すると

そして、腐敗ガスの産生とともに身体は浮かんできます。



"溺死"と言っても範囲が広いですので、法医学では『溺水が淡水か?海水か?』で分けたりします。

ここでもその分類で分けて説明していきたいと思います。


【淡水溺死】

・血液は薄まる。
・溶血が起きて高カリウム血症で"不整脈死"することがある。


"淡水溺死"は、具体的なケースでいうと「お風呂や川での溺死」ということになります。

塩分濃度が低く、いわゆる"薄い水"です。

淡水溺死では、吸引した溺水の40%が肺から血中に移行すると言われており、血液(特に左心血)が溺水によって薄まります。

そのため、血中のミネラル、例えば『Cl-濃度が[左心血<右心血]になる』という所見が認められたりします。

その他、同様に血液が希釈された結果として、血液の比重が下がったり、全体の血液量が増加している所見が得られることもあります。

血液が薄まった結果、カリウムを含んだ赤血球が溶血し、"窒息"ではなく高カリウム血症による"不整脈"で亡くなることもあります。



【海水溺死】

・高張のため肺胞浮腫が起き、血液濃縮が起こる。


海水は塩分濃度が高く"濃い水"です。

そのため、肺胞では浮腫が起こり、血液は濃縮されます。

従って、淡水溺死とは逆に『Cl-濃度が[左心血>右心血]になる』という所見が認められます。

また濃縮の結果、血液比重は上昇し、全体の血液量は減少します。


「淡水か?海水か?」で、こういった所見の違いが出てくるんですね。



溺死で認められる所見は数多くあります。


『急死の3徴』:①溢血点 ②血液流動性(固まっていない) ③臓器うっ血の3つ。あくまで"急死"の3徴なので、溺死に特異的なものではないことに注意が必要である。

『シャウムピルツ(白色微小泡沫)』:ドイツ語の[シャウム=泡、ピルツ=キノコ]から来ている。死亡して間もないご遺体でみられるキノコみたいにもこもこした細かな泡のこと。溺死の40-50%で認められるとされる。口からあふれ出ていたり、気管内に認められる。呼吸運動により空気と溺水が撹拌され出来る。

『水性肺気腫(溺死肺)』:溺水で水浸しになって肺のこと。病的肺水腫との鑑別が難しい。教科書的には割面の泡沫液の流出は[溺死肺<病的肺水腫]とされる。死後1日以降では胸腔に溺水が染み出してくる。

『乾性肺水腫』:水性肺水腫とは違い、割面における液体の流出は少ない。その一方で、圧迫で大量の泡沫が漏出する。これを"水性肺気腫"と記載している本もある。

『パルタウフ斑』:吸引した溺水に気道内の空気が追いやられ、肺胞内圧が上がることで毛細血管が破綻し起こる出血。(参考記事:「パルタウフ斑」)

『ワイドラー徴候』:胃内容を静置すると気体・液体・固体の3層に分かれる現象。(参考記事:「ワイドラー徴候」)

『脾臓収縮』:溺死の60%で認められるとされる。溺水時のアドレナリン分泌により起こると言われる。

『筋出血』:呼吸補助筋をはじめとする筋肉出血。大胸筋や胸鎖乳突筋にも認める。呼吸困難時の急激な(呼吸)運動による。

『頭蓋底うっ血』:血圧上昇に伴う中耳腔・乳突蜂巣・錐体内などのうっ血や出血。溺死の60%に認められるとされる。

『鵞皮』:立毛筋の死後硬直によって起こる。あくまで"死体現象"であり"生活反応"ではない。

『漂母皮(化)・蝉脱』:水に浸かることで起こる皮膚の"ふやけ"のこと。死後数時間で足や手や皮膚から発生する。1-2日で手足全体に広がる。1週間経つと完全に表皮が手袋のように剥がれ、これを"蝉脱"[センダツ]と呼ぶ。溺死でなくても、死後水に浸かっていたら起きる現象である。

『プランクトン検査』:肺・肝臓・腎臓・骨髄といった臓器を強酸で溶かすことで、溶け残った"珪藻(ガラスで構成される)"を確認する検査。"風呂溺"の場合は水中に珪藻がいないためこの検査を適用できない。(参考記事:「プランクトン検査」)

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以上、今回は法医学でも重要なテーマである"溺死・溺水"について書いてきました。

溺死は水害事故のみならず自殺の手段としてもしばしば選択され、そういう意味でもやはり重要です。


溺死自体は特徴的な所見も比較的多く、死因の判断は極めて難しいというほどではないのかも知れません。

しかし、『何故溺死する状況だったのか?』

もっと言うと『事故なのか?自殺なのか?他殺なのか?』という判断は法医学者にとっても極めて難しい問題です。

警察による周辺環境の情報はやはり必須になってきます。

そうやって、"死因"だけなく"死に繋がった原因"を究明するのも法医学の役目です。